ご案内

あまり反応を示さない彼女にこういった日がある。
頼みますよ」このままではなすすべもなく患者は死んでいく。
担当医師として見るに忍びなかったのであろう。
首都圏でも生体肝移植をしている施設はあったが、症例数からいって、また野口はTの講演を聞いたことがあるとかで、患者を預けるに足る信頼感からK大を勧めたようだった。
Gが、移植治療への重い腰をあげたのは一九九九年春である。
両親と一緒にK大に出向き、Tと会った。
世界的に高名な外科医と耳にしていたが、会ってみて拍子抜けした。
ハから説明してくれたがよくわからない。
トンチンカンな質問にも丁寧に答えてくれた。
一度ですぐ決断できることではない。
彼女も両親もともに血液型はB。
臓器提供の条件はあることになるが、父はすでに会社を退職し、定年後の生活に入っていた。
六十代の世代にとって、肝臓を切り出してそれを植え込む治療など驚愕する以外のなにものでもない。
両親の様子を見ていて、彼女にはそのことがよくわかった。
そんな空気はTにも伝わったのだろう、こんな風にいった。
「Gさんの場合、まだ少しは時間の余裕があると思いますから、そうね、半年以内にどうするか、生体肝移植をやってみるかどうか、じっくり考えてみることでどうでしょうか」それは妥当な結論であるように思えた。
Gには兄と弟がいる。
血液型はともにB。
兄弟も医学的条件はあることになるが、ただ、だからといってやりましょうという性格の話ではない。
彼女は立場を逆にしてみれば、白身、きっと躊躇するだろうと思った。
以降、家族の間で話し合いが行なわれたが、すぐ積極的にということではなかったようだ。
まだ少し時間的余裕があるということもあったのだろう。
彼女にすれば、そうだろうなと理解しつつ、じゃあ私は死んでしまえということか、とも思ってしまう。
自身、矛盾した思いにとらわれて悶とすることもあった。
この年の秋、下血がとまらず、容態がさらに悪化していることが判明した。
その後また持ち直したのであるが、とりあえず父がドナー検査を受ける手筈が決まった。
携帯電話が鳴ったのは、そんな日のことである。
よぎったのは、脳死移植の成否よりもまず、これで家族との葛藤を免れることができるという思いであった。
生体肝移植のもつ、切ない宿命を改めて思う。
家族はこういう事態にならなければ問われることのない関係性まで問われることになってしまう。
生体肝移植は残酷な治療手段ですI北海道大学医学部第一外科教授の藤堂省の吐いた言葉を私はよく想起することがあった。
だれしも、自身をその立場に置いて考えれば「残酷」という意味に思いあたるところがあるだろう。
藤堂は九州大学医学部出身の外科医である。
スターツルにひかれ、渡米したのが一九八四年、三十六歳のときで、在米は十三年に及ぶ。
八〇年代後半から帰国する一九九七年まで、ピッツバーグにおける肝移植チームの中心的存在であった。
老いたスターツルに代わり、術者として執刀した症例は千例を超える。
正確にはわからない。
九四年、千例を数えたところで、以降数えるのをやめてしまったからである。
藤堂にはピッツバーグで何度か会ったが、留学生たちがつけていた渾名は「帝国軍人」。
大柄な体躯と厳しい指導ぶりからつけられたニックネームであったが、「神の手」と呼ばれる手術の名手であった。
ピッツバーグで働いた日本人医師は数多いが、彼以上のキャリアをもつ外科医はいない。
帰国してしばらくたった日、札幌で夕食をともにした。
脳死肝移植が成立しにくい日本では、その席で藤堂がふと洩らしたのが「残酷」という言葉であった。
脳死移植と生体移植を比較して、藤堂がそういった意味が私にはわかるように思えた。
脳死者からの臓器提供は社会という匿名からの贈物であり、そこに個人間の露な関係性が問われることはない。
長い空白と迷路をさまようごとき論議を経て、臓器移植法が成立したのは一九九七年二月であった。
「一点の曇りもなき臓器移植」といわれたごとく、その条件には、世界を見渡しても例のない厳格な伽がはめられた。
脳死者からの臓器提供は、脳死に陥った場合に臓器提供をする意思、および脳死判定に従う意思を本人が生前に書面で表示しており、かつ家族がそれをこばまない場合にのみ成立するとした。
このような仕組みのもとでは脳死移植の症例数が極めて限られたものとなることは予測されたことだった。
それでも、法の施行から一年四か月を経て第一例目の臨床が成立し、以降、日本社会はようやく臓器移植時代への遅い船出をした。
脳死肝移植については現在、全国を七ブロックに分け、それぞれ実施病院が決まっているが、当初は、生体肝移植の実績からK大と信州大の二か所のみが指定されていた。
限られた臨床にレシピエント候補者はまず移植実施施設で診察と諸検査を受け、肝移植の適応評価を受ける。
評価は学内倫理委員会に回され、承認されれば日本肝臓病学会適応評価委員会へ書類送付される。
ここでも適応ありと認められれば日本臓器移植ネットワークに登録される、という流れとなっている。
もちろんこの間、候補者にインフォームドーコンセントがされ、意思確認がされる。
ドナーが出た場合のレシピエントの選択については、厚生労働省の専門委員会で選択基準が決められている。
登録されたなかでどの患者が選ばれるかは点数による。
優先順位は、対象疾患、医学的緊急性、ABO適応度の三点である。
対象疾患については、劇症肝炎、胆道閉鎖症、先天性代謝異常症、バッドーキアリ症候群、原発性胆汁性肝硬変……などに二十点、B型ウイルス性肝硬変(細小肝癌を含む)とC型ウイルス性肝硬変(細小肝癌を含む)に十点、アルコール性肝硬変に五点の点数が与えられている。
ウイルス性肝硬変の点数が低いのは、前記したように再発の可能性が高いからである。
医学的緊急性については、予測余命が一か月以内に九点、一か月から六か月以内にIか月から一年以内に三点、一年を超えるものに一点となっている。
ハ点、六ABO適応度については、ABO血液型同一に丁五点、ABO血液型適応に一点とされている。
トータルの点数が高いものが選ばれ、同一点であった場合、移植待機期間の長いものが優先されるとある。
このような仕組み、手続き、レシピエントの選択については、まずはよくできた公正なものだと私は思う。
ただ、ドナーが出なければ絵に描いた餅に過ぎない。
K大の場合、レシピエント候補者は常時十数人から二十数人が登録されてきたが、多くは脳死移植のチャンスがないまま亡くなっていった。
あるいはチャンスがないと見切って生体肝移植に切り替えた患者も少なくない。
脳死移植にめぐり会うのは「宝くじなみ」といわれている。
その「宝くじ」に、Gは遭遇したのである。
当人に「医学的緊急性」が告げられることはないが、おそらく「三点」か「一点」に該当する患者であったのだろう。
京都駅で、Gは大阪からやってきた両親と待ち合わせ、タクシーでK大病院で向かった。
深夜であるが医師とJなおみが待ち受けていた。
摘出チーム四人はA県に向かっていた。
ドナーの肝臓を摘出し、レシピエントに植え込んで血流が再開されるまでの虚血許容時間は十二時間以内が望ましいとされている。
Tは福岡から京都に向かっている途中という。

プラセンタ注射がどんなものかご存知ですか?プラセンタ注射は絶大な支持を受けています。
プラセンタ注射を捉えてみました。生まれ変わった最新のプラセンタ注射です。
プラセンタ注射が普及しています。プラセンタ注射を応援します。